らいらいか

ごはん、お酒、猫、本好きの三十路サラリーマンのブログです。

自分の意見

自分の意見を持つことが大切だと言われるが、そもそも「自分の意見」というものは存在するんだろうか。友達と話をするとき、もしくは会社の会議で発言をするとき、その他何らかのコミュニケーションをとる時に、自分のものと思って発している言葉の組合せを、他者からの借り物ではないと言い切れるだろうか。他人が対象について語っているのを何らかの媒体で聞いたりして、一定の時間が経ったのちに、(どこかで聞いたことを忘れて、)気付いたら自分の意見のように発言しているだけなのではないだろうか。

 

同じことを発言しても、自分の意見としている人と、そうでない人は分かれると思う。そこにあるのは独自性というよりも、自分の言葉として表現できているかということなんだと思う。(一応これは自分自身の意見だと、僕自身は認識しているが)自分の意見というものは、特定の事象を事実だと認識し、そうした事実を元に、自分の経験から作りあげられた自分のフィルター(主観というのだろうか)を通じて作り上げられたものなんだと考えている。反対に、人から借りた意見というのは、自分で事実を認識する過程と、その事実もしくはその組合せをどのように理解するかという過程を通っていないために、自分の意見にならないのである。

 

ただし、事実というのをどうやって事実とみなすかというと、それはそれで難しい。事実を事実と見抜けるかは一定の知識に寄ると仮定すると、自分の意見を作るには、多くの経験を積む、すなわち行動をすることが重要になるんだろう。

 

そういえば、どこかでウィスキーの魅力はその個性にあると聞いたことがある。手段を問わず表現が人そのものだとすれば、人もウィスキーも似た物どうしなのかもしれない。若くて魅力的なウィスキーがある一方、時間を重ねて洗練されたウィスキーになるのである。

マッチ売りの少女

あの時代ってマッチ数本売ったら生活できたのかと、ふと疑問に思ったので当時の物価についてどなたかご存知じゃないでしょうか。自分で本を買って考察してみようかなとも思ってます。

 

最近は、なんでか昔話がどんな話だったか興味が出てきています。小さな子どもを背中に乗せた龍でオープニングが始まった日本昔話をテレビで見ていたせいでしょうか。オープニングの記憶が曖昧ですので、そんな龍いなかった可能性はありますが。

 

ほかにも、友達と友達の父親の関係性が我が家のそれと全く違うことを知ったときの衝撃の大きさをふと思い出し、そんな映画作れないかなとも思ってます。父と子が笑って話をしているという事実が存在することを受け入れられず、なるほど世界は自分が思っているよりもずっと違うんだと認識したのです。

 

必要悪って言葉を作ったやつ誰だよとか、女性がいつばばあになるのかとか、物を共有してもいい人と共有したくない人の違いは何かとか、しょうもない疑問が湧き上がります。

 

齢30を過ぎ、もう33になろうとしているのに、社会に貢献するような立派な大人になれる気配がありません。ところでマッチ売りの少女の名前はハイジだったでしょうか。いや、クララだったかな。

幕ノ内

ふと思い立ちブログを始めることにしました。

 

まずは、簡単な自己紹介を。

  • 好きなものは、うまい店さがし、ウィスキー、猫、読書。お笑いも。
  • どちらかというと理想主義者で正義感は強め。ひねくれ者の反体制派。
  • 内気ですが、女性(70代)にモテます。
  • 禁欲的な生活を送っていますが、物書きになりたいわけではありません。
  • なりふり構える人間になりたい。

 

普段仕事では特定の社内の人としかやりとりをしないので、ブログを通じて新たな日常を作りたいと思いました。加えて、会社の当たり前に縛られず、自由に自分を表現していきたいと感じていました。そんな僕にとってブログというのは絶好の表現の場でした。

普段仕事でつくる報告資料とは違い、血の通った文章、時には支離滅裂な文章も書いていきたいです。

 

このブログを始めることが、自分をどのような方向に導くか見当も尽きません。少しずつ書き表す中で、何か見つけるのもありだと思っています。普段の仕事では決して許されない成果の出し方は、貴重な経験になりそうです。

 

それでは、よろしくお願いします。