らいらいか

ごはん、お酒、猫、本好きの三十路サラリーマンのブログです。

よく考えること

管理部門からこれこれについて調べて報告してくださいと頼まれることがある。経緯を知らない立場からすれば、その目的を教えて欲しいと自然な流れで尋ねることになる。そうしたときに、以前からやっているものなので、とだけ回答をもらうことがあり、自分が勤める会社ながら大丈夫かなと思ってしまう。大袈裟にいえばノウハウが組織に蓄積されていないわけある。これは依頼した部署だけでなく、被依頼部署である自分が所属する部署についても同様である。前任者が業務の目的や進め方などを文書の形で残していない。

 

さて、このような管理部門からの依頼は、現場からすればはっきり言って手間である。管理部門と現場との間には当然業務の重要性について認識の違いがあり、管理部門には一定程度の説明責任が求められる。要するに管理部門にとっての顧客とは社内の非管理部門の人間である。

 

ただ会社というものが、会社法上の定めに限っていえば、株主のものであることを蚊mんガエルと、現場だからという理由で特定の業務について無意味だと短絡的に判断してはならない。どのような立場であれ、会社の存在理由を理解すべきであり、自分以外の業務の重要性も認識しておかなければならない。

 

ところで、ここで気になるのが、多くの会社勤めの人間は結局のところ上を見て仕事をしているだけなのではないかということである。上司から言われた仕事は意味など考えることなく、取り組んでいないだろうか。それは一般職であろうが、管理職であろうが、役員であろうが同じで、結局は自身の人事権を持っている人に対して、意識的もしくは無意識のうちに従順になっているように思われる。世代により感覚は異なるのだろうが、たとえ役員として多額の報酬をもらっている人であっても、さらに出世したいという思いはあるのだろう。

 

この点から考えると、会社の特に重要な仕組みは人事制度であるといえる。どれほど壮大な理念やビジョンを掲げようと、それを実現させる仕組みが存在せず、もしくは機能しなければ、従業員が増えていく過程でほとんどの従業員が上を見るだけの存在、いわゆるヒラメ社員になってしまう。

 

一方、最近の若い人々の価値観として、自分のスキルを高めたり、自己実現することを重要視するのであれば、それはヒラメ社員とは対極の存在である。自分の価値を社内の相対的な立ち位置で把握するのでなく、自身の絶対的な実力などで把握することを意味するからだ。

 

ここでまたひねくれた性分として、そうした若い人々の価値観も外部の環境から気づかぬうちに刷り込まれたものなのでは疑ってしまい、そもそも自分の意見や価値観というものは存在するのかと、また頭を抱えてしまう。自分が自分の意見だと思っているものは、はたして本当に自分の意見なのだろうか。

大人になってからの友達

歳を取るにつれて小さい時の友達のような存在はできにくくなる気がする。人との仲のなりやすさは当然に個体差があるだろうが、大人になればなるほど、自分が思う自分に囚われてしまって、誰かを評価をすることなく人と接することが難しくなるのがその原因だろうか。

 

小さい時の友達は、ただ一緒に楽しければよくて、ドロケイをしたり、サッカーをしたり、虫をとったり、時々持っている小銭でゲームセンターに行ければそれだけで心の底から楽しかった記憶がある。そんな友達の前では、その他大勢では決して言えないことも話せるし、翌日顔の筋肉が痛くなるくらい笑うことができる。

 

大人になってから親密になれる人は、人としての本質的な部分、特に思想や信条の部分で共鳴できることが大事なんだと思う。そういった人とは、たとえ友達という関係性でなくても、尊敬や信頼という関係で繋がることができ、自分を演じることなく接することができる。

 

大人になればなるほど、難しい言葉や概念を覚え、難しい本を読むことができることができる。お金があるからいろいろな経験ができる。人生における経験の幅は確実に広がる。それでも実はそれが原因で増える友達の数が少なくなるのだとしたら、残酷なトレードオフである。

 

大事なのは量ではなく、質だと思い込むしかない。

ノウハウは組織に蓄積されるか

タイトルのようなことを考えることがある。それは部署の異動や部内の担当替えなどにより担当業務(ここでは仕事とはあえていわない)が変更されるたびに行われる引継ぎというものが、不思議な仕組みだと思うから。

 

他の会社のやり方は知らないが、私が勤めている会社では業務マニュアル(のようなもの)を作ったり、特定の期間一緒に業務をこなしたりしながら新たな担当者に業務を覚えてもらっている。担当者が一人きりと言うことや前任者が既に組織にいないことなどから、ある業務を同時期に他の人が知らないことがあれば、引継ぎなしには円滑に業務が継続されないことになるだろう。(とは言うものの、大体の業務はその目的さえ正しく認識されれば、細かな点は違っても同じようなやり方でアウトプットを目指すことになると思う)。

 

ここでの違和感は、引継ぎがヒトからヒトへなされているところにある。業務というものが、会社が従業員に求める成果(もしくはその一部)を得るために存在するものだとすれば、業務達成のために必要な考え方や、それを具現化した手続き、及びその課題なども含めたノウハウも会社に帰属されるべきものだと思うからだ。要するに引継ぎはヒトからヒトへ、ではなくて会社(組織)からヒトへ行われるべきものであって、それにより会社として不確実性を伴うことなく継続的に業務を行うことができるのではないかと考えている。

 

ただし、ノウハウをどのようにすれば組織に蓄積することができるか、また蓄積されたノウハウに従業員はどのようにアクセすることができるかということについては、まだ考え方が固まっていない。どこかの会社には便利なシステムが導入されているのか、もしくは管理職(会社の機能の一部)が業務をすべて把握し、その業務を細切れにして担当者に渡すことで十分なのか。

 

職人という人たちは、技術がヒトからヒトへ繋がれ、ある職人が時にそれを発展させているんだろう。一方で利益(社会貢献などによって得られる満足度なども含むとする)追求がある意味で最上位の目的である会社という組織が、職人のやり方を参考にこそすれ、同様のやり方をすることはなんとなく適切ではないと考えている。

 

このような問いに、ナレッジマネジメントという分野は一定の方向性を伴った回答を示してくれるのだろうか。もう少し考えを巡らしてみることにしたい。

取留めのない文章

自分には何でもできると思うこともあれば、自分になんか何にもできないと思うことがある。自分には特別な才能があると思うこともあれば、自分には何かを成し遂げる才能なんて全くないと思うことがある。

 

幼い頃の人生は将来が希望に満ち溢れ、生きることは生きることでしかなかったが、年を重ねるにつれて大事な人失う中で、生きることは死への過程でもあることを理解した。多くの人が自身に問いかけたように、また僕自身も生きる目的について考えることがある。そして考え続けている。

 

30年間生きていると、得意ではないのにそのことに気づかず時間をかけすぎてしまったことを後悔する一方で、ある体験から小さな感情の揺れが生じたことから、自分がそれを好きなことに気付いて嬉しくなることもある。

 

自分はあとどれだけ生きられるのだろうか。最適化すべき目的関数を妥当に設定できているだろうか。

ノウハウ本

本屋に行けばノウハウ本の類をよく目にする。短期間で英会話やプレゼンテーションができるようになったり、もしくは気になる異性と付き合えるようになったり、抱える病気が治ったりするらしい。

 

ジャンルが多岐にわたるノウハウ本のそれぞれについて、自身に性格な知識がないことから、その内容の正しさを判断しかねるものが大半ではあるが、仮に内容が正しいとした場合こうしたノウハウ本に意味はあるのだろうか。

  

確かに意味があるものも存在することは間違いないが、大抵は読み手にとって意味をなさないのだと思う。それはそもそもノウハウ本というものが、何らかのプロセスがメタ認知された結果作られたものであるという性質に由来するのではないか。メタ認知は、すなわち認知の一種であり、認知の仕方は当然に人によって異なるものである。認知の仕方の異なりとは、現象を捉える際の枠組みの違いである。したがって、あるノウハウ本の書き手とその枠組みが異なれば物事の理解の仕方が異なることになり、書かれている内容を表層的には理解できても、深い理解につながらず、結局身に付くことはないということになるのだと思う。

 

書き手は自身の経験をメタ認知することによって、全体感を把握するとともに、個別の事象についても改めて振り返ることになり、結果として最も学ぶことができる。要するにノウハウ本は書き手のために存在するのであって、仮に読み手にとってのノウハウ本の価値とは何かと考えると、あることを身につけたいと思った際には、色々な調査を行ったのち、とりあえずやってみて適宜振返ることが重要だという、至極当たり前の考えに行き着くことに他ならない。

個性

辞書を引くと、個性というのは個体に備わった、そのものの特有の性質を意味する言葉らしい。人はみな遺伝子も違えば経験も異なることから、当然に異なる個性を持つことになる。

 

有名人などのモノマネをする芸人を見ていると、一生懸命誰かみたいになることにどのような意味があるのかと性格悪く思ってしまうことがあるが、人の真似をできるというのは、すなわち、人の言動を洞察し、洞察した結果を精度よく再現できるという能力が他の人よりも優れているという意味で、個性があるということだろうか。いずれにせよ、そこに唯一性という観点での個性はあるのかとも思うが、いやいや真似方にも個性が出るんですよ、とかいう堂々巡りからは逃げられそうも無い。

 

そんな僕は猫のような暮らしをしたいんだけど、それってモノマネ芸人と本質的に変わらないと自分でも理解している。そんなどうでもいい思考を踏まえると、誰かみたいになりたいという思いや憧れがなくなって初めて、その人の個性が出てくるんだろう。

白髪ぼかし

家の近所を散歩していたら美容室があって、メニューに白髪ぼかしとあった。ぼかすというのはどういうことなんだろう。メニューには白髪染めもあったので、黒く染めて白髪を見えなくするわけではないらしい。

 

ぼかすというと、境目をぼんやりさせるようなイメージなので、白髪を黒色までとはいかなくとも、灰色くらいに染めることをいうのだろうか。黒く染めると明らかに手を加えたことが分かるが、灰色くらいならナチュラル感を演出できるということか。髭が濃い人が髭の薄い人に憧れて、本来なら何回も行かねばならない脱毛に2,3回だけ行くのと同じ形だろう、きっと。

 

今まで何とも思わなかった街の光景に心が動かされる機会が増えた気がする。昔ならどうでもいいと見過ごしていたことに急に興味が湧いて、例えば学生時代は大嫌いだった日本史や世界史の勉強を始めている。こうやっておじさんになっていくのかと、おじさんにならないと分からないおじさんへの道のりを、今まさに実感できている。自分の加齢臭にも気づけなくなったとき、完全なおじさんになります。